インタビュー
□ 乱田舞インタビュー   by 安田理央
 いきなり自分の話から始めて申し訳ないが、僕が高校生の頃、日本のAVは黎明期を迎えていた。1980年代の半ばの話だ。AVは今よりもっといかがわしいムードにあふれ、SMモノが幅をきかせていた。のちに美少女モノの代名詞となるような大手メーカーも、その時期はSMビデオをリリースしていた。そんな中で際立っていたのがアートビデオというSM専門メーカーの作品だった。日本的な陰湿さとハードボイルドな雰囲気をあわせ持つアートビデオの作品のファンとなった高校生の僕は、年齢詐称にビクビクしながらもレンタルビデオ店で、そのおどろおどろしいパッケージのビデオを片っ端から借りていた。
 その同じ頃、20代の乱田舞青年もアートビデオに夢中になっていたという。
「当時、家庭用ビデオデッキが出たばかりでね。速攻で借金して買ったんですよ。アートビデオに出会ってからは、もう自分の行く道は決まったと思いましたね。あれ見ながら縄の練習して…。毎月買ってたな」
----え、買ってたんですか? だってあれ、レンタル用ですよね。買うと一本一万円以上したでしょう? あの頃は借りても一本千円以上したけど…。
「もう本当に好きだったから(笑)。当時はコックやったり運送屋やったり眼鏡屋やったりしてたけど、アートビデオ買うために働いてるって感じだった。常連の男優の黒田透さんが好きでね」
----あ、黒田透! かっこよかったですね。いぶし銀のようで、底知れぬ怖さがあって。
「あの陰湿な責めっぷりがたまらない。おれ、黒田さんに会いたくて、アートビデオの会社を突き止めて、その前でじーっと待ってたことあるんですよ。3回遭遇して、黒田さんが目の前を通ったんだけど、一度も声かけられなかった、緊張して。それぐらい好きだったんですよ。おれの中では松田優作に匹敵する大スターだもん。だから、今、黒田さんの監督作品で一緒に仕事できるのは、すごく光栄なんですよ」
 嬉しそうに25年前の思い出を語る乱田舞は、まるで少年のように屈託がない。緊縛師としての彼しか知らない人には、まるで他人のように思えるだろう。普段の乱田舞は、きわめてフレンドリーで魅力的な「気のいいお兄ちゃん」キャラなのだ。ぱっと見だけで、彼がSMのプロなのだと想像することは難しい。


 
乱田舞のSMへの目覚めは小学4年生の時だったという。当時流行していた白土三平の劇画「カムイ伝」の作中で、女性が磔にされているシーンを見た時、少年の中で何かが動き出した。
「そのシーンにすごく興奮したんですよ。でも悩みましたね。他の友達とかが、オッパイだアソコだって騒いでるのに、おれは磔で興奮してる。自分はおかしいんじゃないかと、誰にもいえなかった」
 その頃、乱田少年はオナニーも覚える。ネタはやはり「カムイ伝」の磔シーン。その他に「ルパン三世」の峰不二子のヌードなどもネタにしたという。
「実はウチのお袋は動画家だったんですよ。『巨人の星』とかのアニメの絵を描いてたんです。で、『ルパン三世』も担当していて、家で峰不二子の裸のシーンなんか描いてたりして。その時は『むこう行ってなさいよ』なんて言われたけど(笑)」
 母親が描いた峰不二子のヌードをネタにオナニーするというのは、ずいぶん変わった状況である。「カムイ伝」と「ルパン三世」。乱田少年の性の目覚めはマンガ文化と密接な関わりがあった。
 自分がおかしいんじゃないかと怯えていた乱田少年は、中学生になったある日、本屋の片隅でSM雑誌と出会う。女が縛られている写真やイラスト、そして小説が満載のその雑誌を手にして、世の中には自分と同じような性癖の人間がたくさんいることを知った。
「ほっとしましたね。それからは、もうSM一直線ですよ。雑誌を立ち読みして頭に焼き付けて、家に帰ってすぐオナニー。僕は新宿生まれなんですけど、その頃はよくエロ雑誌が落ちてたんですよ。そういうのを探して回ってました。変な子供ですよ。放課後、何をやってるのかといえば、SM雑誌探して徘徊してるんですから」
 エロ雑誌探しに夢中になるくらいなら、男性なら誰しも経験があると思うが、乱田少年の特異なところは、実践も伴っていたことだ。中学時代、すでにガールフレンドを縛っていたというのだ。
「つき合う子、つき合う子、すべて縛ってましたよ。なかなか信じてもらえないんだけど、『縛らせて』って頼むと『面白そう』って、たいていOKしてくれるんですよ。これは今でもそうだな。飲み屋とかでも、『おれ、縛るの好きなんだけど、縛らせてくれない?』って言うと、成功率高いんだよね」
----中学生でSMプレイしてたなんて、ちょっとすごいですね。それが高校生になると?
「当然、エスカレートしてましたよ。放課後、同級生を教室で縛ってて、担任に見つかって怒られたり。で、懲りずに翌日に階段の下の清掃道具入れの中で縛ってたら、掃除のおばちゃんに見つかっちゃって、学年主任にチクられて停学(笑)。高校時代までに20人以上縛ってるな。全部、同学年の子なんですよ。だからクラスの中に何人もおれに縛られた子がいるの。口止めしてるから、みんなお互いに知らないの。秘密を共有するのって楽しいでしょ」
----でも、中高生くらいの時って、穴があったら入れたい頃ですよね。普通のセックスには興味なかったんですか?
「まぁ、いちおう縛った後にしてたけど(笑)。縛ってからじゃないと興奮しないんですよ。前戯みたいなもんですね。本当はセックスするより、縛った女の子の姿見てオナニーする方が気持ちよかった。まぁ、一応入れておくか、くらいの気持ちです。実はセックスが気持ちよくなったのは30歳過ぎてからなんですよ」
----セックス自体には淡白だったんですか。
「実はおれ、初体験が小学5年生だったんです。しかも3P」
----小学生が3P?
「当時、欽ちゃんの番組でやってた野球拳が流行ってたんです。で、友達の家で女の子二人と野球拳やってて、すっぱだかになっちゃって、そのまま3人でやっちゃった。『ちょっと、おまんこ見せてよ』って、見てたら勃起したんで『これをここに入れればいいんだよね』ってノリで。あんまり気持ちよくなかったんです。だからセックス自体には幻想がなかったんでしょうね」


 
 高校を卒業した乱田舞は、学生時代からバイトをしていたレストランで働くこととなり、調理師免許も取得。その頃、スワッピング雑誌である「オレンジピープル」にSMサークルの会員募集の広告を投稿する。
「今で言う乱交サークルみたいな感じかな。趣味の人間集めて、みんなで女を調達して一緒に楽しもうみたいに考えて。『オレンジピープル』の読者だから、スワッピングのノリで来た人が、だんだんSMにハマっていったりしてね」
 当時、他にそうしたサークルが少なかったこともあって、乱田青年のサークルは活況だった。ホテルのスィートを借りて行われたパーティでは多い時で30人くらいの会員が集まったという。この時、乱田青年は、まだ20歳そこそこだった。サークルは不定期ながらも5年ほど続いた。
「サークルで活動しているうちに、自分の縛りをみんなに見せたいって気分になって来たんですよ。アートビデオ見て研究した、おれの縛りを(笑)。その頃、とあるスポーツ新聞がサークルの取材に来たんですね。それで、記事になったんだけど、その時の快感って言葉に出来ないほどでしたね。『ああ、おれの縛りが新聞に載った!』って」
 この快感が、プロの緊縛師・乱田舞を誕生させることとなった。
「新聞に載ったちっちゃい記事を持って、出版社とかAVメーカーを回ったんですよ、縛りの仕事ないですかって。でも全然相手にされなかったな。そのうち、つながって来たのが裏本の世界ですよ」
裏本。非合法の無修正ポルノ写真集である。
「縛りとか関係なしに男優とか、ずいぶんやりましたよ。田口ゆかりのとかね。裏本は男優の顔写らないから、わかんないだろうけど」
----あ、じゃあ、僕らも知らないうちに乱田さんのチンコ見てるかもしれないんだ。
「そうそう(笑)。人前でやることは全然気にならなかったな。もともと目立ちたがり屋だから。子供の頃は劇団に入って子役やってたし、中学校の時は弁論大会に出て、みんなが堅苦しいこと言ってるのに、ひとりで物まねやってウケ狙ったりしてたもん。好きなんですよ、人前で何かやるの」
 そのうちに少しずつAVでの縛りの仕事も入ってくるようになった。前述の通り、80年代のAV業界ではSMモノの本数はかなり多かったのだ。
「画面には登場しない裏方の縛り師でね。でも、メジャーなAVメーカーじゃなくて、ブラックパックとかが多かったんですよね」
 ブラックパック! 80年代半ばに、ごく一部でブームとなった無審査ビデオの総称で、黒い紙パックに入っていることから、ブラックパックと呼ばれていた。AVと裏ビデオの中間的な存在で、ウナギを挿入したり、タバスコを浣腸したりというアナーキーなSMプレイを見せる過激な作品が多かった。
「あれ、関西で制作していたから、よく大阪とか京都まで縛りに行きましたよ」
 乱田舞の歴史は、そのままエロメディアの近代史なのだなと、話を聞きながら僕は思った。エロメディアをずっと追いかけていたスケベ少年だった僕は知らない間に、あちこちで乱田舞を見ていたことになる。


 
 乱田舞の名を一躍広く知らしめることとなったのが、90年代に入って西麻布のクラブ「レッドシューズ」で行われたSMショーだった。レッドシューズは業界人の社交場としても知られる最先端のクラブだった。そんな場所でのSMショーというのは、閉鎖的な当時のSM業界では考えられないことだった。
「明智伝鬼さんのショーを何回も見たんです。これだけかっこよく上手く縛れる人がいるんだな、おれもこうなりたいなと思いましたけど、その反面、おれならこうするな、とも思ったんです」
 明智伝鬼を初めとするそれまでの縄師はショーでは黙々と女体を縛り上げていた。しかし、乱田舞は、そこに照明、音楽、舞台、シチュエーションなどを加えたら、もっと面白いものになるのではと考えていた。
「それまでの暗いイメージじゃなくて、もっとカッコいいショーをやってみたかった。それもSMに全然興味がないような連中の前でやりたかった。あちこちに声をかけていた時に、あるプロデューサーと出会って、『じゃあ、やってみましょうか』って、レッドシューズでのショーが実現したんです。面白かったですよ。踊りに来ている客の前で緊縛ショーやったんです。みんな『えー、何、何?』って興味持って見てくれて」
 このコラボレーションはたちまち話題となり、多くのマスコミが取材に押し寄せた。「トゥナイト」「ギルガメッシュ・ナイト」などの番組でも、この模様は紹介された。テレビで初めて緊縛ショーが放送された瞬間である。月一回ペースで10ヶ月ほど続いたレッドシューズでのショーは、SMショーのあり方に様々な変化をもたらした。
「業界からの反発はすごかったですね。SMは、そんなきらびやかなものじゃないとか情緒がないとか。あと、SMは表に出るものじゃないからTVであんなことやるなんて言語道断とか、ずいぶん叩かれましたけど、それも楽しかった。認めてもらったってことですから。このままガンガン行こうって思いましたよ」
 それまでの縄師には、人生の重みを感じさせる老人というイメージがあった。若く行動力のある乱田舞の活躍は、明らかに新しい世代を感じさせた。この反発は、どこの世界でもある世代間の軋轢といえるものだったのだろう。
 いずれにせよSMの新しい展開を切り開いた乱田舞は、和太鼓と尺八によるSM緊縛ライブセッションや、吉本興業と組んでのお笑いショーへの出演、そして数々のAV制作と破竹の勢いで活躍することとなる。


 
----話を聞いてると、乱田さんってすごくアクティブですよね。20歳そこそこの若さで自分からSMサークル作っちゃおうとか、出版社やAVメーカーを回ったり、ショーの企画を考えたり、いつも自分から動いてますね。
「うん、やりたいことがあったからね。実を言うと、今はちょっとその頃のギラギラした気持ちが無くなって来ちゃってる。正直、パワーが落ちてると思いますよ」
----年齢的なものですか?
「もちろんそれもあるし、若い頃に自分が思い描いていたことを実現できちゃったってこともある」
----満足してしまった?
「うん。そうなってくると、今まで気にならなかった他人のSMが気になってきちゃうんですよね。本当に今までは、他人が何をやっていようと何を言おうと、自分のSMにしか興味がなかったんだけどな」
----それは若い世代の緊縛師にですか?
「最近は、血まみれだとか虐待的なものだったり、悪趣味な表現が多いでしょう。あれはちょっとイヤだな。つい文句をいいたくなっちゃう。でも自分でもわかるんですよ。嫉妬してるんだっていうのが。新しいものが自分の中から出てこないから嫉妬しちゃう(笑)。おれも、今のイメージにとどまらずに、自分なりの新しいSMを追求していきたいとは思ってます」


 
----最後に聞きます。乱田さんにとって縄の魅力とは?
「かっこつけていうと、つながりですね。ちっちゃい子にお母さんが『よしよし』って抱いてあげるじゃないですか。そういう感覚なんです。お互いの心が求めあってるものがピタリとあった時は、縄が血管みたいに思えるんですよ。縄を通してお互いの魂がいったりきたりする感覚」
----SMと言っても、いじめてるんじゃないんですね。
「ちがいます。だからおれは最近の虐待的なSMには反発覚えちゃうんですよね」
----乱田さんの縛るって行為は、むしろセックスに近い?
「うん。おれは縄でセックスしてるんです。だから縛っている時は常に気持ちいいんですよ」
----セックスって言っても、ただ挿入するだけの行為じゃなくて、心が通じ合うようなセックスですね。
「結局SMって、そういうことだと思うんですよ。自分の責めに対して女の子が体を預けてくれる。それはおれを信頼してくれているってことだし、その反応でおれは褒めてもらっているんです。女の子はおれの責めに耐えて褒めてもらいたいと思ってる。お互いに認め合いたい。そういう心のつながりが、おれのSMなんです。例えば鞭できません、ローソクできませんなんて子でもいいんです。その人の出来ることの範疇でもSMは成立するんです。変なプライドを捨てて、小さな子供に帰って、真っ白な状態で相手に身も心も預けるのは、すごく楽しいし気持ちいいことだと思うんですよ」
 まるで癒しのカウンセリングのようだ。SMを暴力的なものだと思っていたり、支配/非支配の関係なのだと思っている人には、乱田舞のSM観はちょっと意外かもしれない。
 しかし実際に、ロシアではムチで打つことによって精神不安定な患者を治療する方法が科学的に実証されている。肉体的な苦痛を感じると「幸せのホルモン」と呼ばれる脳内物質エンドルフィンが多く分泌されるというのだ。SMが癒しにつながるという考え方は、決して間違ってはいないのである。


 
 プロとして活動を始めて約20年、「カムイ伝」の磔で目覚めてから数えれば、もう35年にもなるという乱田舞とSMの関係。
 今年は念願の海外公演も予定されているという。
「まだまだ新しいことはやりたいんですよ。いつもドキドキしていたい。それが無くなったらつまらないじゃないですか。今でもね、ライブは面白いですよ。この間もDX歌舞伎町でショーをやらせてもらったんですけど、事前に相手の女の子に伝えないで3メートルくらいの一本鞭使ったんです。女の子はいったいどんな反応するんだろうって考えるとドキドキしますよ。あの一回目の鞭を振る瞬間の緊張感はたまらないですね。怒っちゃうかもしれないし、感じてくれるかもしれない。どうひっくり返るかわからないライブ感。これがあるからやめられないんですよ」
 女性の内面と、一対一で向き合うことから生まれる駆け引きが何よりも楽しいのだという。これからも乱田舞は縄を通して、女たちとセックスし続けるのだろう。
 
安田理央(やすだ・りお)

1967年生まれ 埼玉県出身 美学校考現学研究室卒業
1986年より雑誌編集業務に従事。
以後アイドル雑誌、ファミコン雑誌などの企画編集、コピーライター業を経て、
1994年よりアダルト系フリーライターとして独立。

風俗、AV、マルチメディアエロ、マンガ、ロックなどのテーマを中心に執筆。
1998年には、妻子持ちでエロ仕事をする業界人としての苦悩をテーマにしたコラム『ムスメよ!』を週刊SPA!に連載し、話題を呼んだ。官能小説のアンソロジー『日曜官能家EX』(イーストプレス)では、初めて小説にも挑戦。 また1999年には『巨乳風俗ギャルプライベートSEX』(hmp)でAV監督としてもデビュー、2003年には全国の風俗街をレポートする『月刊日本全国オススメ風俗MAP』(芳友舎)シリーズ全9作が大ヒット。 さらに新しいタイプのデジタルカメラマンとして写真集『OPEN&PEACE』(1999年 メディアックス)、『デジハメ娘。』(2003年 二見書房)も発表している。

安田理央公式サイト「LOVE FOR SALE
http://www.lares.dti.ne.jp/~rio/